前の話(↓)と関連して、また別の文脈でも考えが広がったので書いていこうと思います。
「自分を俯瞰してみる」ことについてです。
実験室のネズミは、生き方を考えるいいきっかけだった
脳に電極刺されたネズミの例ですが、これを自分に置き換えて見るのは自分の人生を見つめなおすのにとてもいい視点だと思いました。
頭の中にいるネズミには、脳に電極を埋め込まれていて電気を流すと、食欲や性欲といった快楽が刺激される。
ネズミが住む箱庭にはボタンがあって、そのボタンを押すと電極から刺激が出る。
箱庭にはネズミが何匹も住んでいるのだけれど、とある一匹は、箱庭に餌や魅力的なネズミがいても、そっちにはわき目も降らずにひたすらボタンを押し続けている。
という状態を頭の中に作っておきます。
これをぱっと思い浮かべると、わあ嫌だな、と思うわけです。
(自分はわりかし人とのかかわりを避ける傾向があるので、自戒をこめて↑のような状況設定にしていますが、そこな各自カスタマイズしてもらえると。)
それでもって、自分も果たしてそうなっていないか、という風に、自分で自分を俯瞰してみる視点も手に入ります。
自分が実験室のネズミをのぞき込んであれこれ思うように、自分も地球という実験室の中での活動を誰かに見られているのではないか。そんな風な視点です。
誰か、というのはなんでもいいです。鳥でも、地獄の門番でも、おじいちゃんでも、神様でも、好きなものを思い浮かべてもらえれば。
そうなると、自分がいつでも外から見られているとして、果たしてどのようにふるまっていれば恥ずかしくないかという風に考えがめぐります。
外側からの大きな何かの視点
何かしらの宗教をお持ちの人は、こういった外からの大きな視点というものが内在化されているように思います。
クリスチャンであれば、常に神様が私を見ているから、神様に見られて恥ずかしくないように振舞おう、神様の価値観に沿って人生を生きよう、なんていう風になるでしょう。
ただ自分(含めいくらかの日本人?)は、基本的に無宗教で、そういった神様の視点というものを持っていないように感じます。
昔の人は「ご先祖様が見ている」といった外からの視点があったかと思うのですが、今の都会の若者には果たしてどうでしょうか…。
(強いて言うなら”世間の目”でしょうか。ただこれの拘束力はどの程度のものだろう…人によってのばらつきも大きそうです。)
そういう外の視点がないと、乱れた人生を送ろうとしてもとがめられることはありません。
(誰からも見られていない状態で)乱れそうになってしまった際に、どれだけびしっと自分を統制できるかどうかは、そうなると価値観や思想に依存すると思います。
誰にもばれずに怠けることができる選択肢がある、こっちの選択肢をとれば楽ができる、そうなったときにそれでもあえて厳しい方の選択肢をとるのは、そちらの道が自分の信条なり、価値観にあっているからでしょう。
ただ人間完璧ではないので、コンディションが悪かったりするとついつい甘えてしまいがち。
そんな時に、頭の中にネズミをぱっと思い浮かべるのです。
そうすると、自分を俯瞰する視点を思い出します。
果たして今の自分は、誇れる自分であるか。
つどつど自問をしながら歩んでいけば、きっと陽明さんのように死に際に「この心光明なり」と微笑みながら逝けることでしょう。
…と思ってこれからも毎日頑張っていこうと思いました。
最後まで読んでいただきありがとうございました!