自分が実験室のネズミみたいだと感じたときの気持ちの切り替え方

最近感動したい欲がまた再燃してきました。

人生の豊かさを図る指標に、「どれだけ心を動かされたか」という項目はとっても大きいと思うんです。

今回は実験室のネズミの話を通して、そんなことを書いていこうと思います。

 

脳に電極を刺したネズミの話

 

ある日電車で揺られていて、ふと頭に思い浮かぶことがありました。

大学生のころか、それよりもっと前のことか。本のタイトルも忘れてしまいましたが、何かの本で書いてあった、脳に電極を刺したネズミの話です。

脳の快楽をつかさどる部分に電極を刺して、ネズミが、実験小屋の中にあるスイッチだったかレバーだったかを押すことで、電流が流れて動物の欲が満たされるみたいな話だったと思います。

レバーを押すことで快楽が得られることを学習したネズミは、ひたすらにレバーを押し続け、餌も食べなくなり、そのまま死んでしまった…なんて内容でした。

 

それで、ふとこの話を思い出して、このネズミの人生こんなもんか。虚しいこっちゃなと思うわけです。

その時同時に、自分はこんな単純なネズミなんかとは違うぞ人間様だぞとも思うのですが、果たして本当にそうなのかと意識がとまりました。

ゲームをやっていると顕著に感じるのですが、これって快楽の種類が異なるだけで、傍から見たら実験室のネズミと同じなのではないか。

ゲームでは、生身の自分はなにも苦労せずに簡単にレベルアップして、簡単に敵をやっつけて、簡単に(ゲーム上の)欲しいものを手に入れて、欲が満たされる。ゲームはとてもお手軽に快楽を得る手段で、ある意味ネズミに与えられたレバーのようなものと変わらないように思えてきます。

 

で、ゲーム以外のものについても考えてみます。

もし仮に、ぽんと20年間分のお金と時間とその他生存に必要なもろもろを与えられて、好き勝手生きていいですよと言われたら、自分だったらおいしいもの食べて、好きなもの買って、旅行に行って・・・すると思います。

これも、変な見方をすればこう見えます。

実験室に私(人間)がぽつんと一人いて、それで実験室にはたくさんの種類のレバーがあって、それぞれ異なるレバーを押すと、異なる種類の快が脳にダイレクトに得られる。それでもって、さあ好き放題レバーをひいていいですよ、と許可を与えられた状態で。

そうすると、まあ自分だったら手あたり次第に引いてしまうだろうなと。

(異なる種類の快っていうのは、食欲性欲睡眠欲みたいなものあれば、消費欲だったり知識欲だったりいろいろです。)

こうやってみると、人間の生も、ネズミよりも快を得るバリエーション(快の種類とそれを得る手段)が多いだけで、あれあんまり変わらないんじゃないか。とも思えてきます。

 

だとしたら何だ、という話ですが、

この見方は快楽を求めるのが悪い、という考え方が前提にあって、別に快楽を追求するのは悪いことではないと思うので、問題はないはず。問題ないはずです。

ただ、何となく虚しいなという気持ちが生じてきます。

この何とも言えない虚しさっぽい感情をこのままにしておくのは嫌です。

 

どうすれば解消されるか。

 

もし、人間が特定の刺激を与えたら一定の反応を返すある種機械のようなものだ、というとらえ方をしたら、上記のように考えられるものと思います。

ただ、人間の心はそんな単純なものではないし、脳のこの部分にこれくらいの強さの刺激を与えたら、涙を流すくらい悲しくなる、なんてものではないはず。(と信じてます。せいぜい空腹感を満たす、とかはできても。)

人の優しさに触れたときのあの感じとか、知人がなくなった悲しみのあの感じとか、心がすごく動くような感覚は、そんな単純な刺激で生み出せるようなものではないと思うし、そこに実験小屋の中のネズミと私の違いはあるんだと思いたい。

そうだとするばらば、「快を求めるネズミ」の虚しさに支配されない人生とは、きっといっぱい心を動かす、感動にあふれた人生だと思うのです。

 

ということで、再び感動したい欲が高まってまいりました。

これから何か感動できる(もの・人との)出会いがあるといいなと思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。