モチベーションが下がる原因は「意味」が「意義」にとってかわられるからだろうか

本を読んでいて、だいぶグサッときたところのメモです。

 

「意味」と「意義」の取り違え

ちょっと長いですが引用です。

問題なく動けて社会適応できている時には気付き難いことですが、 私たち現代人は「いつでも有意義に過ごすべきだ」と思い込んでいる、一種の「有意義病」にかかっているようなところがあります。

特に最近では、SNS等に写真付きで投稿できるような「何かをする」ことが重視される風潮も高まっていて、ひたすらゴロゴロして過ごした場合など、「何もしなかった」ことになって、後ろめたい気持ちにさいなまれたりします。

何の「価値」も生み出さなかったのだから、ちっとも「有意義」でなかったことになってしまうわけです。

また現代では特に、「価値」というものが「お金になる」「知識が増える」「スキルが身につく」「次の仕事への英気を養う」等々、何かの 役に立つこと に極端に傾斜してしまっているので、「意義」という言葉もそういう類の「価値」を生むことにつながるものを指すニュアンスになっているのです。

 

著者が指摘している「有意義病」はまさに今自分がかかっていて、自分の場合は何かしら勉強していたりしないと落ち着かない、この時間にあんなこともできたのに(できなかった)と思うとすごく自己否定してしまいがちです。

それでもって、常に時間を有意義にできることなんてなくて、ちょっとモチベーションが下がってしまったりして無為に過ごしてしまう時間が多くなると、なんてダメなやつなんだ、と思ってしまいがち。

 

人が「生きる意味」を問わざるを得なくなるのは、必ずや「意義」を追い求める生き方に疲弊したからなのであって、そこで改めて「意義」を問うてみても、それで何かが見つかるはずもありません。

生産マシーンのごとく、 常に「価値」を生むことを求められてきた私たちは、「有意義」という呪縛の中でもがき続けていて、大切な「意味」を感じるような生き方を想像する余裕すらない状態に陥ってしまっているのです。

 

 

勉強のモチベーションの浮き沈みがこのところ激しくて、どうしてかを考えていると、はじめは自分の「好き、楽しい」でやっていたものが、やらなくてはいけないから、という動機に変わっていることが原因かと考えています。

ブログを書くのも、勉強するのも、基本的には自分の気が向いたときに行うもので、だからこそコツコツ続けられている面があると思っています。

ただ、こと勉強に関しては、会社で宣言してしまったがために、自分の気が向いていないときにも取り組まなければいけない状況になってしまいました。(それを狙って宣言した面もありましたが…)

そうすると、「好き、楽しい」でやっていた勉強も、どこか義務感的なモチベーションで取り組むようになることが多くなり、それが全体的なモチベーション低下につながっているような気がしています。

これは引用したところを踏まえると、はじめは「意味」を感じて取り組んでいたものが、次第に「意義」にとってかわられてしまい、(本心と翻って)「意義」を追い求めるのに疲れてモチベーションが下がっている、なんていう風に言えるかもしれないです。無理やりかな。

 

しかし、一方の「意味」というものは、「意義」のような「価値」の有無を必ずしも問うものではありません。しかも、他人にそれがどう思われるかに関係なく、本人さえそこに「意味」を感じられたのなら「意味がある」ということになる。

つまり、ひたすら主観的で感覚的な満足によって決まるのが「意味」なのです。

やはり(他人にどう思われるかに関係なく)「やりたい」や「好き」を行動軸にしければ幸せになれそうです。

とはいえ、自分の場合は、その「やりたい」と思うきっかけに他者の目線があることが多いのが困りどころです。

これをやったら、これができたら、もっと周りの人から良く思われるだろうか、社会に受け入れられるだろうか、みたいなことが頭をよぎります。それでGOサインが出たら、モチベーション高く取り組める。

つまりは、他者の承認を得ることが、根っこのモチベーションにあるということです。困ったな。

どうしたらこの承認欲求から解放されるのか。

大学生のころからずっと承認欲求に縛られてる自覚はあるものの、どうにも克服することができないのがもどかしいです。

 

タイトルはちょっと過激ですが、引用箇所以外にも、結構現代人には刺さりそうなことがたくさん書いてあるので、中身はおすすめです。

時間があればぜひ読んでみてください。