『人間の器量』を読みました。自分の器をはかる、という観点で自分をよく知ろうと思うきっかけになりました。

福田和也さんの『人間の器量』という本を読みました。

この頃、

・他人の一面を見て全体を評価してしまうような傾向

・相手に対する好き嫌いといった感情によって、その人の良いところばかりを見たり逆に悪いところばかりを見たりする傾向

・そもそも相手を心の中で”評価してしまう”傾向

に悩んでいて、それを直したいなと思ってヒントを求め手にとった本です。

さっくり感想とメモ書きを書いていこうと思います。

 

著者について

福田和也

1960(昭和35)年東京生まれ。文芸評論家。慶應義塾大学環境情報学部教授。慶應義塾大学文学部仏文科卒。同大学院修士課程修了。1993年『日本の家郷』で三島由紀夫賞、2002年『地ひらく』で山本七平賞受賞。著書に『日本の近代(上・下)』『昭和天皇』など多数。

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著作を見ると、日本昭和に関係するタイトルが多い印象です。

 

かんたんな内容紹介

福田さんは戦後、日本人が小粒になっていることに問題意識を感じているそうで、なぜかくも小粒になってしまったのか、その理由を考えてみましょう。

という内容となっています。

※ちなみに著者のいう器量とは?

そもそも器量が大きいってなによ?と思うわけです。ひとによっていろんな物差しがあるだろうと思いましたが、福田さんいわく

心が広い、度量のある人。

能力がある、役に立つというだけでなく、個人の枠、背丈を超えて、人のために働ける人。

何の特にもならないことい命をかけられる。尋常の算盤では動かない人間。

その一方で、妙に金銭には細かったりして。

誰もが感動するような美談を振りまくかと思えば、辟易するような醜行をする。

通り一遍の物差しでは図り難いスケールをもっているということ、それが器量人ということになるでしょう。

( p14より引用)

だそうです。

これこれこういう人、というふうに画一的に測れてしまう時点で器量が大きいとは言えないようなので、定義しようとすることにまず無理がありそうな感じがしますね。

 

印象に残った箇所

2点あります。

①人を見る目は自分を見る目

これ一番最初に述べていることなのですが、現代の人は、他人を見る目が薄っぺらい人、評価の物差しが乏しい人が多い、と主張しています。(人物観の平板さ)

特に、その物差しを資格とか学歴とか、偏差値とか業績とか、そういった自分の外のものに求める人が多いといいます。

ただ、(当たり前ですが)人というのは複雑で多面的で、そんな簡単にわかり得るものではない。

人物観の平板さがもたらす問題には2つあって、1つは大物が潰されること。よい才能を持つ人材が、そことは無関係な側面から批判されてだめになってしまう点をあげています。

例えば高橋是清は、昭和の恐慌を救った偉人であるけれでも、家では妻と妾を同居されて芸者を買ってまでいる。今だったら、財政方面で偉業を上げる前に女性関係でつぶされるだろう、みたいな。

こちらはまあ自分はそんなに問題には思わないのですが、(事業だけでなく人としても立派な人に上にたってもらいたい、、)

もうひとつ言っている、自分の見方も平板になっていしまうよ、という方はこころに残りました。

例えば自分は、相手がものをわかりやすく話すか、といった部分で判断してこの人すごいな、なんて思うことが多いのですが、人を測るものさしとしてこの基準しか持っていなかったとすると、自分に対しても「ものをわかりやすく話せているか?」という目線でのみ評価が行われるようになる。

それでもって、ものをわかりやすく話せているかどうかは、その都度自分の外部の人間と比較して、ということになるので外のすごい人に会うたびに、自分はわかりやすく話せない、、と自分を評価することになります。

このときに、他にも自分を測る基準を持っていれば、あの人よりわかりやすく話せないけど、(例えば)自分は構造的に物事を把握することができるししてきたじゃないか、と持ち直すことができます。

しかし一つしか基準がないと、ああ自分はダメな人間だ、、と自己肯定感がだだ下がりです。

こんなふうに1つの基準にすがってしまうと、特にそれを外部に求めると、外での評価に自分のこころが振り回されてしまいます。

また、自分のことをきちんと知っていないと、実際の能力を超えて自分は優れていると思いこんで大失敗したりだとか、自分を小さく捉えて、その小さな枠の世界で生きてしまったりすることも。

したがって、自分をよく知ることが、自分を経験から判断して正しい自己肯定感を得る点で重要なのでしょう。

 

②大隈重信のエピソード

あと面白かったのは大隈重信のエピソードです。

大隈さんは、もともとかなり厳しい人で、ある人に対して、こいつは馬鹿なことばっかりいうやつだ、くだらないことばっかりいうやつだ、と判断するとそれ以降まったく話をしないし、会いもしないような人だったそうです。

馬鹿な人間と合うのは、時間の無駄。そういう考えの人いまもたくさんいますよね。

ところが、そんな態度だと周りの人がついてこず、政治家としては大隈より能力も見識も劣る(らしい)伊藤に負けてしまいます。

その状態を見て、大隈家居候で実業家だった五代友厚さんがこんな進言をします。

一、愚説愚論を聞くべし。一を聞いて十を知ってしまうのが閣下の短所である。

二、地位が下の人間が、閣下と近い意見を述べたらすぐに採用すべし。他人の論を褒め、採用しないと徳は広がらない

三、怒るべからず、怒気怒声は禁物。

四、事務の処断は、急ぐべからず。即決せずにぎりぎりまで待つべし。

五、閣下が人を嫌うと、向こうも閣下を嫌うようになる。進んで、嫌いな人との交際を求めるべし。

大隈さんはすぐにこれを受け入れ、180度態度を方向転換します。

会いたいという人にはできる限り会うようにし、今までバカにしていた人の意見も聞き、、、。

そうして人々を見方につけ、大正3年に大隈内閣を誕生させ、政友会を破りましたとさ、めでたしめでたし。

というエピソードです。

 

この本では、このエピソードを通して、50歳を超えて、こういった助言を受け入れられたところに器量の大きさが見られる、とか人は何歳になって変われるよ、という点を強調していました。

ですが、自分はこのエピソードを読んで、人を全体として評価することはやっぱり良くない、ということを思いました。

 

大隈さんがうまく言っていなかったときは、こいつは能力がないやつだ、馬鹿なやつだと人を判断して会いもしない、としていましたが、それはその人の一部でなく、全体を評価して態度を決める行為です。

大隈さんがその人のどこを見てそう思ったのかはわかりませんが、大隈さんが見ていたのはその人のあくまで一部である。

どんな人だっていい側面も悪い側面もあるから、悪い側面だけを見るのではきちんと判断できるとはいえないし、かつまったく合わないという、人として否定するような態度を取るのはよくないでしょう。

 

大学に入ってから、”ひとは一緒にいる人に大きな影響を受けるから、付き合う人は選んだほうがいいよ”なんていう人によく出会うのですが、前々から聞くたびにちょこっと不快感を覚えていました。

(そんなふうに思うのは自分が過剰に人の評価を気にする側面があるためだとは思うのですが、、)

あんまり付き合う人を選んでこだわっていると、逆に人がついてこなくなるような人間になってしまうのかもしれませんね。

 

おわり

興味ある方はこちらから読んでみてください

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