社会的、キャリア的な目標とは別に、こんな人になりたい、という人格的な目標を以前から持っています。
それは、100%(とは言わずとも90%くらい)
どうしてそう思うようになったかというきっかけはこちらの記事に
自分の幸せの上限値を取っ払う、という意味合いが大きいです。
このところ風邪で寝込むことが多く、
10年後に、
いい人は難しい
例えば交差点で赤信号を待っている光景を頭に思い浮かべてみる。
ふと目の前の人のリュックサックががばっと大きく開いていること
ここで、「リュック空いてますよ」と声をかけるのがいい人だと思います。
しかし、この時に実際に声をかけると、
・周りの人にあの人いい人だわ、
・単純に自分いいことしたな、といい気持ちになる自己満足
これらが得られます。
客観的に事実だけを見れば(親切に教えてあげた)
つまり、客観的にはいい人でも、主観的にはいい人でない。といったことが発生します。
動機が利他的であることの重要性
いい人であるかどうかは、行動が客観的に見て利他的であるのは当然のこと、その動機も利他的であるかどうかが自分は重要だと思っています。
なぜか。利他的な行為をされた当人の側からみると、たとえ行動が利他的に見えても、その人の行動動機に不純なもの(自己中心的な部分)を感じ取ると、利他的な行為を受け取る気持ちが変化することがあるからです。
例えば、病気にかかって入院しているとして、知人Aがお花をもってお見舞いに来ます。
(まったく現実味のない例ですが、)このAさんは次の県知事選挙に出馬する予定です。
入院している私は、お花をもってお見舞いに来てくれたAさんにうれしい感情を抱きます。
少し雑談をして、Aさんは帰る支度をします。そして、帰り際に一言こう言います
「それじゃお大事にね。あ、ちなみに再来週の選挙に私出るから、よかったら投票してね。」
ここで入院していた私は、Aさんが選挙の票を集める目的で自分のお見舞いにやってきたと思います。
そうすると不思議なことに、あれだけうれしかったのに、その気持ちはどこかへ行ってしまいました。
このAさんのお見舞いという行為は、客観的に見たら相手を思った利他的な行為といえると思います。
しかし、その動機に選挙の票を集める、という自己中心的なものを感じ取ったことで、客観的に利他的な行為を受け取った私はうれしい気持ちがなくなります。
こんなように、客観的な利他性だけではなく、その動機にも利他性が多く含まれていないと(含まれていると相手に思い込ませないと)、相手の嬉しさは半減、場合によってはマイナスまで振り切れることもあるのではないでしょうか。
とするならば、客観的に親切かどうかではなく(はもちろんのこと)、
100%利他的かどうかはどう測るのか
人間である以上、動機に自己満足が含まれるのは仕方がないと思います。
どんな利他的な行為にも、その動機には自己満足と利他心の両方が混じっている。
それでもって、自己満足と利他心でどちらのほうが大きいかどうかは、
例えば、先のリュックの例でいうならは、
あれ、
本当に相手のためだけを思ってるならそんなことは頭をよぎらないように思います。
こんなふうに、相手のためを思っての行為をするさい、行動の前にそういった雑念がよぎった場合は自己中心的な動機が大きい、と自分は判断しています。
利他心の割合を増やすにはどうしたらいいか
利他心の割合を増やすには2つの方向性があると思っています。
一つは、いい事の基準をあげることです。
たとえば、リュック空いてるよと声をかけるのは、
だから、他の人に、「おお、いいひとだな」と思われるような行為を当たり前のように行う習慣を身に着けられたら勝ちです。
その境地に至るためには、行為の前に自己満足だと頭をよぎっても、ひたすらに行動しまくるのが大事だと思います。
やらなければ習慣になりませんから。
もう一つは、自分が満たされることです。
人に対して自然に気遣えるのは、
人間関係なり、金銭面なり、他者評価なり、
に思います。
ただそういう欲は上限がないのも確かであるので、どこかで閾値を自分で持っておいた方がよいのかな。
まとめ
・さしあたりは自分を満たすことに注力しよう
・もし利他的行為のチャンスが来たら、雑念がよぎっても実行しよう
・親切を親切と思わなくなるくらい(当たり前だと思うくらい)実行しよう