人生の目的とか意味に悩む人へ。ちょっぴり元気が湧いてくる文章を抜き出してきました。【幸福はなぜ哲学の問題になるのか】

どんな行動にも目的がある、そういう考え方があります。

毎朝嫌な気分になりながら満員電車に揺られているのは、数十分後に会社に到着しているためで。

数十分後に会社に行かないといけないのは、きちんとお給料をもらうためで。

お給料をもらうのは、そこそこの生活水準を保つためで。

そこそこの生活水準を保ちたいのは、、、、

というふうに自分たちのあらゆる行動にはなにか未来に目的があるんだ、というふうに考える事ができます。

もしそうやって考えるのであれば、「人生の目的」なんて言うものも考えていった先に見えてくるかもしれません。

そうやって考えていった先にあるのは幸福だ、と昔アリストテレスさんは考えました。

 

ただ、その考え方の嫌なところは、じゃあ死んだらどうなっちゃうの、という点です。

結局目的は未来にあるのであって、未来は行き着くところまで行くと、死です。

それでもって死んでしまったら何も残らないし、自分の意識もなくなってしまうから、それじゃあ今こうやってブログを書いていることも、将来のためにがんばって勉強していることもみんな無意味じゃないか。そんなふうに考える事ができます。

※その考え方の反論みたいなものは以下の記事でも書いています。

死んだらあらゆることが無意味じゃないか、という思いにとらわれていた頃を振り返る

 

人生をそれ全体として、その外部から価値づけることは極めて難しいー。「人生は単に無意味であるだけはなく、不条理であるかもしれない」とネーゲルは述べます。人生がそれ全体としての目的をもっておらず、そして人生がその外部からみて「本当に重要なものでも、厳粛なものでもなく、死が人生の終着点であるならば」、われわれはその不条理を耐え忍ぶだけの存在かもしれないからです。(・・・)人生の、あるいは人類史におけるすべての営みは、外部から見た際の価値のなさという、本質的な虚しさを持っています。

(「幸福はなぜ哲学の問題になるのか」より)

生の外、すなわち死から人生を眺めてみると、どうにも虚しくなってしまいます。

死んでも、自分の生きた痕跡が世に残るじゃないか!なんていう人もいますが、もっと視野を広げて数億年もたってしまえば、人類なんていいなくなってるだろうし、そもそも地球すらなくなっているかもしれない。

そこまで考えてみると、偉大な発明をしたり、だとか歴史に名を刻んだ、何ていうですらやっぱり虚しい。

会社でちょっと活躍した、異性にモテた、とかなんてなおさらです。

和歌山でリゾートバイトをしている時に、そんな話を上司のホテル支配人の人にしてみたら、

「人生全般で考えたら無意味かもしれないけれど、でも今の君には今の行動のどれも意味があって大事なことだよね」

なんてニュアンスのことを言ってくれました。これはまさに「内側の視点」に立つ考え方です。

その虚しさから逃れる数少ない道の一つは、「内側の視点」にとどまることでしょう。人生や人類史の全体をその外側から価値づけるのではなく、その内側のみ価値付けるなら、内側にある個々の目的は、意味を取り戻すかもしれません。たとえば、駅まで走ったのは「終電に乗るため」であり、お金をためたのは「時計を買うため」であり、(・・・)こうした「内側にある」目的をそれぞれ果たして行けたなら、人生全体の目的など要らない、というわけです。

 

とはいえ、駅まで走るのは「終電に乗る」という内側の目的のためであるとしても、それだけでは人生楽しくありません。「終電に乗る」という目的が目的足り得るのは、もっとその先に何らかの目的があって、自分たちを動機づけるようななにか喜びの源泉のようなものがあるからなはず。

でなければ、「終電に乗る」という目的は発生しえません。

となると、やっぱり、目的のさらに目的の、さらにその目的の、、、というふうにたどっていかないといけなくて、もとの発想に立ち戻ってしまいます。行き着くところは死です。

 

そんなふうな考えに陥ってしまった時に、「幸福はなぜ哲学の問題になるのか」という本を書いた青木さんが、こんな素敵な文章を書いてくれていました。

また読み返せるようにここにメモしておこうと思います。

人類がまもなく絶滅するある日、残された最後の人間は人類史を振り返ってこう考えるかもしれません。-人類は実にさまざまなことをやってきた。そのほとんどはもはや消え去り、残されたわずかな事物もしばらくすれば消え去るだろう。しかし、各々の時代の人々が各々の場面で、それ自体としての充実と喜びをもった「活動」をなしてきたならばそれらはまさにそれ自体としての、無時間的な-時間の流れとは独立の-価値をもっている。

「無時間的な」ということを理解するには、時間を空間のように捉える必要があります。人類史を1本の映画ではなく一枚の画のようなものとしてつまり、時間的に順番に展開されていくものではなく、空間的に一挙に展開されたものとして捉えた時、その一枚の画が豊かな色彩や描線に富んだ-充実したさまざまな「活動」に満ちた-ものであることは、それ自体として価値を持つでしょう。それはちょうど、人類全体の共作による、驚くほど巨大で緻密な画なのです。

こんなふうに人類史を振り返ることは、慰めにすぎないかもしれません。しかし、こうした慰めさえ不可能なほど人類史が貧しいものでなかったことは、賞賛される以上に祝福されるべきことです。

(・・・)

私達のなかには、ほぼ間違いなく、人類最後の人間はいません。しかし私達はだれもが確実に、人生最後の人間となります。自分自身の人生に関して、です。人生が間もなく終わるであろう日に、その人生が慰め不可能なほど「活動」にかけたものでなかったとすれば、それはやはり祝福されるべき、幸福な人生だと言えるでしょう。

 

※ここでいう「活動」とは、『ニコマコス倫理学』のエネルゲイアのこと。エネルゲイアとは、その活動自体のうちに目的をもっているような活動のこと。