ミヒャエルエンデ「モモ」の思い出深いシーンと考えたことのメモその1

2017年最後に読んだ本は、ミヒャエル・エンデの「モモ」でした。

児童文学ですが、ところどころにエンデさんのメッセージが散りばめられているように感じました。

10年後20年後に再び読んだときにまた違う感想をもっていそうなので、昔どう感じていたかなと気になったときようにメモしておこうと思います。

ネタバレがあるので、まだ読んでいない方は見ないほうがいいと思います。

 

「モモのところへ行ってごらん」の理由

 

街の住人は、何か悩んでいたり、喧嘩していたりする人を見かけると、きまって「モモのところへいってごらん」といいます。それはモモに話を聞いてもらうと、悩みが解決したり、仲直りできたりするからです。

しかし、モモがしていることといったら、ただじっと相手を見つめて、お話や、口喧嘩の様子を眺めているだけです。

なぜそれで問題が解決するのでしょうか?

 

モモは大きな目でふたりを見つめています。(中略)モモの顔からはどちらも読み取れません。けれどふたりはきゅうに、自分の姿の写った鏡をつきつけられたような気持ちがして、恥ずかしくなりだしました。

 

悩んでいるときや、喧嘩をしているとき、そのことは当人にはとても大ごとに感じてしまっていますが、はたから見るとちっぽけであることが多々あります。

その時には、感情に支配され視野が狭くなってしまっていますが、住民はモモにそれをぶちまけていく中で、モモを媒介として自分を客観視することができ、自分(たち)の悩みや喧嘩がどんな些細なことであるかに気が付くことができるのだと思いました。

 

悩んだり、憤ったりしているときこそ、一呼吸おいて、自分を客観視するように心がけたいです。

 

 

道路掃除夫ベッポの仕事観

 

ベッポはほうきで道路を掃くお仕事をしています。ひとあし-ひと呼吸-ひとはき。ときどき足をとめながら、これをゆっくりと繰り返していくところにベッポの仕事のこだわりがあります。

「とっても長い道路を受け持つことがよくあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」

(中略)

「そこでせかせか働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげてみるんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。こういうやり方は、いかんのだ。」

ゴールが今の自分からはるか遠くにあるとき、どんなに頑張ってもなかなか近づいている実感が得られないことがあります。

そんな時に無理して頑張り続けると、逆に体を壊してゴールから遠ざかってしまいます。

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひとはきのことがけを考えるんだ。いつもただ次のことだけをな。」

(中略)

「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」

(中略)

「ひょっと気が付いた時には、一歩一歩進んできた道路が全部終わっとる。どうやってやりとげたかは、自分でもわからん。」

彼はひとりうなずいて、こう結びます。

「これがだいじなんだ。」

 

目の前のことをただ一生懸命に取り組むことで、仕事が楽しくなってくる

急いては事を仕損じる

なんて教訓ですね。

 

目標を立ててそれに向かって頑張ることは、自分の人生を充実させるうえでとても重要なことに感じます。(退屈しませんからね)

ただ、その目標に固執しすぎてしまうと、目標にたどり着くことのできない自分と、理想の自分(=目標を到達した自分)を常に比較してしまい、自分を肯定できなくなり疲れてしまいます。

そういったとき、「遠い先のことを考えるのでなく、目の前のことをただ一生懸命に取り組めば、楽しくなり、気が付いたらゴールに到達しているんだ」というベッポさんの言葉は心にしみるのではないでしょうか。

 

 

世の中の変化と仕事の質の変化

 

左官屋のニコラ

「おれは、ひとに見せられるほどのものを建てて、おれの仕事をほこりに思ったもんだ。だがいまじゃ・・・。」

左官屋のニコラは、自分の仕事に誇りを持っていました。

「時代はどんどん変わるんだ。いまおれのいるむこうじゃ、まるっきりちがうテンポで進んでいる。まるで悪魔みたいなテンポだ。

(中略)

なにもかも組織だっていて。手をひとつ動かすにもプラン通り、いいか、ひとつのこらずきちんときまってるんだぞ・・・・・」

昔は丁寧に自分のペースで進めていた仕事が、組織化・マニュアル化されることで効率がよくなり、以前とは比べ物にならないペースで進むようになります。

「あそこでやってることに、がまんしきれなくなるのさ。まっとうな左官屋の良心に反するような仕事をやっているんだ。

(中略)

いちばんひどいのはおれたちがあそこで建てている家だ。あんなものは家じゃない、ありゃ―――死人用の穴ぐらだ!思っただけでも胸がむかむかするよ!だがな、そんなことおれに何の関係がある?おれは金をもらう、それでけっこうさ。そうさ、時代がかわったんだ。」

効率化が進むと、そこに人のこだわりや思いが介在する余地が少なくなるのでしょうか。自分を殺し、組織の一部として働くことも必要になってくることがあるのでしょうか。

「そのうちにお金がたたまったら、おれはじぶんのお仕事におさらばして、なにかべつのことをやるよ。」

 

 

ニコルが勤めることになったような会社は、あくどいことをしているようなので、ここまでひどい例は現実にそうないのでしょうが、かわいそうですね。

組織が大きくなればなるほど、効率化が進みマニュアル化されていけばいくほど、自分が仕事に関わる部分が、全体の中の小さな一部となっていってしまいます。

そうすると、昔のニコルのしていた仕事よりも、自分がこだわることのできる部分が減っていき、作業間が増していき、仕事が「自分の仕事」でなくなっていく感覚があるんじゃないかと思います。

それをニコラはお金で無理やり納得しようとしています。

「仕事は金を稼ぐためだ。それ以上の何物でもない」的な考え方は、こうやって生まれるのだろうかと考えてしまいました。

 

とはいえ、今は組織だって仕事をすることが当たり前な社会です。仕事をするにあたっては、自分のしていることが最終的にどんなものを生み出すのかを意識するかどうか、に仕事のやりがいや誇りの有無がかかっているような気がします。

(今のインターン先の作業系のお仕事では、タスクの説明のさいにそれがどうして必要か、それをすることで最終的にどんなことをしたいのかが説明されます。そのおかげで、大事な工程なんだなと納得感をもって作業できていますが、もしこの説明が忙しくて省かれてしまっていたらきっと仕事がつまらなくなるんだろうなと思いました。)

そして、その最終的に生み出すものに自分が納得できる仕事につくことがとても大事に思います。

 

余談

自分の好きを仕事にすることについても、ニコラの事例は考えさせられます。

ニコラがはじめから左官屋の仕事を好きで選んだのかはわかりませんが、左官屋の仕事が好きであるために、自分の思うようにやれないことが余計に苦しく感じてしまう面もあると思います。

なので、安易に自分の好きなことを仕事にしようと思うと、好きなことが好きなことでなくなってしまう、なんてことも有り得るのでしょうか。

趣味でやることと、仕事でやることはしっかり区別して考える必要がありそうですね。

 

趣味は趣味で楽しくやって、仕事はやっていくうちにのめり込んでいく、なんてのが理想に感じます。

 

 

居酒屋のニノ

ニノは街はずれで、リリアーナと一緒に小さな居酒屋をやっていました。

客は、たった1杯のぶどう酒をちびちびやりながら、むかしの思い出話をして一晩中ねばるようなじいさんが2、3人訪れるだけでした。

しかし、家主が店の家賃を値上げし、物価も上がる中、それまでのやり方では今の生活が維持できそうになくなってきました。

店主のニノは、店が繁盛しないのは、じいさんたちのせいで、まともな金払いのいい客がよりつかないためだ、と考え、彼らを店から追い出してしまいます。

 

「うちの店に金のないおいぼれどもをかかえこんでいたら、どこから金をとってくりゃいいんだ?なんだっておれが人の心配までしてやる必要がある?おれの心配をしてくれるやつは、いねえんだぞ。」

(中略)

「おれだって、いっぱしの成功をしたいんだ!それがわるいことだっていうのか?おれはここの店を繁盛させたいんだ!立派な店にしたいんだ!それもおれだけのためじゃない。おまえや、おれたちの子供のためを思ってのことなんどぞ。それがわからないのか、リリアーナ?」

 

「わからないとも。思いやりのないやり方でしかやれないなら――こんなふうな始め方なら――あたしはごめんだよ!」

ニノのやり方にリリアーナは反発し、出て行ってしまいます。

でもニノだって本当はいやなのです。

「おれだって、あのじいさんたちが好きだったんだ。なあ、モモ、おれだっていやだったんだ、あんなことを・・・・でもどうすりゃいいんだ?時代がかわったんだ。」

「リリアーナの言う通りかもしれんな。爺さんが来なくなってからは、おれにもじぶんの店がなんとなくじぶんの店じゃないみたいに思えてな。ひえびえとしているんだ、わかるかい?じぶんでももういやになったよ。まったく、どうしたらいいかわからないんだ。

だがな、いまじゃどこの店だってそうやってる。どうしておれだけがちがうやり方をしなくちゃなんねえんだ?」

 

生活の苦しさと、良心との板挟みになっているニノにとても同情します。

誰だって、自分(と最も近しい人)が一番大事で、苦しいときこそ、それが顕著になります。

ただニノは成功(=お金持ちになる)ために、自分の良心に逆らう行動をとったことに後悔を抱いています。ニノが利己的な人物だったから、そういう選択をとったのではなく、そうせざるを得ない状況になったからそうしてしまったのだと思います。

いまじゃどこの店だってそうやってる、という言葉が重たいです。誰かが利己的に振る舞うと、その行動の輪がどんどん広がっていってしまうのでしょうか。

逆にいいことをしたら、その人がいい気分になって、また別の人にいいことをして、なんていう風に行動の輪が広がることもありますよね。どうせならそっちがいいです。

 

もうひとつ思ったのが、幸せになるには正しさが必要だということです。正しさ、というのもよく考えると曖昧な概念ですが、自分の良心や信念に沿う、という風に一旦考えておきます。

ニノは成功のために良心に反することをして自身でも自分の店が好きになれず、妻にもでていかれてしまいました。

他にも、例えば自分の昇進のために、同期を蹴落とすような行動をとった場合、自分の昇進を素直に喜べなかったりしそうです。

なので、幸せになるのには自分の考える正しい道を進む必要がありそうです。

 

またもうひとつ、面白いなと思ったのが、生活が苦しくなるまで、金を落とさないじいさんしか来ない居酒屋で満足していたにも関わらず、生活が苦しくなった途端に「成功」を口走ったことです。

そして成功を目指すとよくない結果が待っている、という・・・。

生活が苦しくなると、それまでの生活以上のものを求めてしまうのはなぜなのでしょうか。

 

 

 

時間泥棒の手口

 

一番印象に残っているのが、フージーさんが時間泥棒に言いくるめられるシーンです。

フージー氏はびんぼうでも金持ちでもない、お客とお話して意見を聞くのが好きな床屋さんです。

あるときふとこう思います。

「おれの人生はこうして過ぎていくのか。」

「はさみと、おしゃべりと、せっけんの泡の人生だ。おれはいったい生きていてなんになった?死んでしまえば、まるでおれなんぞもともといなかったみたいに、人にわすれられてしまうんだ。」

このあと、ナレーションで、フージー氏はけっしておしゃべりも、はさみをちょきちょきやるのも、せっけんの泡をたてるのだっていやなわけでなく、むしろ楽しくやっていて腕に自信ももっていたとフォローが入ります。

「おれは人生をあやまった」

「おれはなにものになれた?たかがけちな床屋じゃないか。おれだって、もしもちゃんとしたくらしができていたら、いまとはぜんぜんちがう人間になってたろうになあ!」

この後ナレーションで、フージー氏が描く「ちゃんとしたくらし」の曖昧さが指摘されます。なんとなく立派そうな生活、贅沢な生活、たとえば週刊誌にもっているようなしゃれた生活、そういったものを漠然と思い描いていたにすぎません。

こう続きます

「そんなくらしをするには、おれの仕事じゃ時間のゆとりがなさすぎる。ちゃんとしたくらしは、ひまのある人間じゃなきゃできないんだ。」

ここで時間泥棒が登場します。時間貯蓄銀行から来たと名乗り、あなたは時間が必要ですね、では時間を貯蓄しませんか?と提案します。

時間は増やすことはできないので、倹約するしかない、と。

そして今のフージー氏の生活でこんなところで時間を倹約できますよ、とあげていきます。

毎週1回の映画、合唱団の練習

週に2回の飲み屋

友達にあう時間、本を読む時間、好きな女の子に毎日花を買って持っていく時間・・・

これを浪費といい、具体的に秒単位でどれだけの時間がかかったかを提示します。数字を突きつけられると非常に合理的でなんだか説得力があるように感じます。

とどめに、預かった時間を10年後には2倍にして返しますよ、と嘘の約束をして契約を取り付ける訳です。

フージー氏はとにかく時間の浪費を削除する生活のなかで、だんだんと怒りっぽく、落ち着きのない人物にすっかり変わっていってしまいます。

 

 

フージーさんは床屋の仕事も楽しくやれていて、仕事の腕もある一方で、もっと大物になれたなんて後悔を同時にしています。

おそらく矛盾する気持ちの両方ともフージーさんの本心なのだと思います。

(モモとはあまり関係ないですが)まずひとつ思ったのが矛盾する心があって当たり前なんじゃないかということです。今就活をやっていて、面接では矛盾するようなことを言ってはいけないなんて教えられますが、そのときどきで自分が正反対のことを思うことなんて普通じゃないでしょうか。

 

もうひとつは、人に流されてはいけない、ということです。よその人がどんなことをやっているのかをみると、どうしても自分と比較する心が働いてしまいます。

そのときに自分の価値観がしっかりしていないと、「人生をあやまった」なんて思ってしまうことが起こり得そうです。というより、流されて生きているとこう思うようになるのでしょうか?

 

はたからみたら大成功しているような人でも、実は内面に常に不安を抱えていて幸せでなかったり、逆に世間のステータスは低いけれども、とても幸せそうに生活している人だっています。

前者の例は自分の知り合いにはいませんが、後者は身近にいるので、社会的な成功=幸せじゃないんだなと感じます。

 

自分で意思をもって納得して人生を歩んできても、不安になるときはあると思います。

ふと隣の芝が青く見えてしまったときには、今の自分の生活になんの不満があるんだと、足るを知る心を忘れないでいたいです。

 

いったんメモはここまで。

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。