死んだらあらゆることが無意味じゃないか、という思いにとらわれていた頃を振り返る

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中学生のころくらいから、死んだら全部なかったことになるから生きることって無意味じゃん、だから生きるモチベーションってどこから湧いてくるの?みたいな考え方を根っこでもっていました。大学生になってそのこととはじめてきちんと向き合って、いったん自分の中ですっきりしたので、考えの道筋を振り返ろうと思います。

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死んだら無意味論を支持する2つの材料

生きることって無意味じゃないか、と思うのは考えているときです。そのとき、自分は自分が生きることになにか理由を欲しがっていいました。

生きることには〇〇な意味があって、だから生きよう。そんな風に思いたかったわけです。

1つ目の材料

人にとって、無意味だとはじめからわかっている行動をとることは苦痛である。

自発的に〇〇しよう、という時(今回の場合だと「自発的に生きよう」とする時)、そこにはそれをすることで何かしらの良い結果が得られる可能性があると思っています。

英語のテストを受けよう、と思う時、そこには英語のテストに受かるだろうという期待がわずかでもあるから、テストを受けることができます。100%テストに落ちる、とはじめからわかっていたらテストは受けようとは普通思わないです。

(問題の傾向を知る、などの意図で、落ちるとわかってテストを受けることはあるかもしれませんが、それも最終的にはテストに受かるという期待を持っているからテストを受けるわけです。)

はじめから100%うまくいかないとわかっていることはやりたくないので、それをやらざるを得ないとなると苦痛になります。

カミュのシーシュポスの神話では、とある人が神様から罰を受けます。その罰の内容が興味深く、大きな岩を山のふもとから頂上まで一人の力で押し上げ、頂上まで上げたら、また自分の手でふもとまで降ろす。それを永遠と繰り返させる、というものでした。

これが罰となるのは、明らかに本人に無意味であろうと行動を強制されることが、人には苦痛に感じるからだと思います。

このことから、人生が100%無意味だと考えると、生きるモチベーションがわかない上に、生きることが苦痛になるために、死んだら無意味論が悩みとなるといえます。

2つ目の材料

自分が認識できないことは、存在しないことと同義

高校生になって、山田君とはじめて出会い、友達になりました。

山田君は、自分が中学生のころにもこの世界に存在していましたが、中学生のころの「私の世界」には存在していませんでした。

社会人になって事故にあい、山田君にまつわる記憶をすべて失ってしまいました。そのとき、山田君はこの世界に存在しますが、「私の世界」には存在していません。

山田君はたしかにこの世界には存在しているのですが、私の世界には、山田君を認識している間にしか彼は存在できません。

何が言いたいかというと死んだら無意味に感じるのは、死んだら生きている間に為してきたあらゆることが認識できなくなるから、ということです。そのとき、たとえこの世界に自分の生きた痕跡が残っていたとしてもそれは自分の世界には存在しないため、なかったことになってしまうのです。

つまり、自分が悩んでいたことを具体的にいい表すと、

「死んだら生きている間にしてきたことが認識できなくなるので、無意味に感じ、無意味だとはじめからわかっていることに対してはモチベーションがわかずむしろ苦痛に感じる」

こんなふうに思っていました。

解決案

無意味と決めつけてしまっているところを、ちょっと考え方を変えてみたらすっきりいきました。

意味がある/ない、とはどういうことか

まず無意味とはどういうことか考えてみます。

意味がないこととはなんでしょうか。

100%落ちるとわかっているTOEICのテストを受けることは無意味でしょうか。

「テストの合否」の文脈においてではたしかに無意味だといえるでしょう。しかし、TOEICのテストを受けたという経験は、のちの人生に間違いなく何らかの形で影響を与えます。

落ちるとわかっていたけれど受けてみたTOEIC試験で、例えばまわりの人がシートに鉛筆でマークするカリカリ音がとても気になってまったく集中できなかった、なんて経験を得ると、それ以降何か別の試験を受けるときに、その経験から耳栓を持っていこう、となるかもしれません。

TOEIC試験が終わり、ベンチに座って落ち込んでいた時に出会った女性と、(さきほど試験を受けた経験のおかげで)TOEIC試験の話で盛り上がり交際に発展した、なんてこともあるやもしれません。

つまり無意味だといえるのは、特定の文脈においてのみであり、(テストの例では、「テストの合否」という文脈)、「何かしらの経験を得たこと」そのことは何らかの影響をその後の人生に及ぼすため意味がある、とも言えます。

意味がある/ないとは、物事をどの文脈、どの角度からとらえたかどうかなのだと思います。従って、見方を変えれば、どんなことにも意味があるともいえるし、ないとも言えます。

死んだら無意味なのか

何かしらの経験を得ることそのことに意味があると捉えられるのならば、生きることは経験の連続だから意味があるといえる・・・のでしょうか。

死んだら無意味論の2つめの材料がこれを否定します。

いくらどんな経験を積んだところで、死んでしまったら自分がその経験を認識できなくなります。認識できない=存在しないだから、生きている間のあらゆる経験は存在しないことと同義です。それはらば生は無意味だ。そう話を持って行けそうです。

ただ、これについては自分が無になる、ということを正しくとらえられていなかったことに気が付きました。

自分が死んで無になったならば、自分の世界そのものがなくなっています。認識できないうんぬんの前に自分そのものがなくなっています。死んだらそもそも振り返られないのです。経験を認識できない、ということの前に、「死んだら~」という問を立てることが不可能です。

自分の生に意味がある/ないと評価できるのは、自分そのものがあって初めて成り立ちます。自分そのものがあるのは、生きている間のみです。

そして生きている間はそれまで培ってきた経験を認識できますから、意味があるようにもないようにもとらえることが可能です。

おわり

というわけなので、物事をいろいろな面から捉える意識、訓練を積んでおくことが大事だと考えています。

これができるようになると、人生とても楽しく過ごせると思います。

誰しもこういったことを一度は考える、考えてきたと思いますが、自分の場合はこんな風に考えました、という振り返りでした。考える際に他人がどうこの問題を考えたかという話も聞きましたが、それを材料にはしても答えにはなりませんでした。

この問題に関しては、自分で考えて自分で納得することが必要だと思っています。その考える材料の1つに、参考になればうれしく思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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