動物園の動物はかわいそうなのか? 動物倫理について考えてみる。

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カメラを買って、いい被写体がいっぱいいるから~なんて理由で動物園にちょこちょこ通うようになったわけですが、パシャパシャ写真を撮る一方で心になにか引っかかりがありました。

それは、「動物園の動物ってかわいそうだな」という心の声でした。

それはものすごく小さな声で、ほぼ写真撮るの楽しい!動物かわいい!癒される!が心を占めているのですが、そういう気持ちもあることにはあって、ズーカレッジをきっかけに一度ちゃんと考えないといけないなと思うようになり、考えをまとめてみました。

※ズーカレッジについてはコチラに書いています。よかったら合わせて見てもらえると嬉しいです。

昨年のイベントでしたが、夏ごろに「大学生のためのズーカレッジ」に参加してきました。 井の頭自然文化園主催で、毎年行われ...

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擬人化して見ている状態は誤り

動物園の動物は、ペットとは違って、長い世代を経て人間に飼育されるよう改良(改悪?)された動物ではありません。

ですので、「動物園の動物たちは、狭い檻に閉じ込められ外の広い世界を見て駆け回る自由を失い、さらにはヒトの見世物になっている状態にある」という見方をして、自分はかわいそうだな、という気持ちを抱きました。

しかし、当の動物たちはどう感じているのでしょうか?

動物たちが、「あ~外の世界見てみたいな」とか「ヒトからじろじろ私生活覗かれるのめちゃくちゃストレスたまるわ」とか感じているかどうか、私たちにはわかりません。

さらに言えば、例えば自由がない、ということを動物が理解しているとして、そのことを悪く思っているのか、よく思っているのか、それもわかりません。

自由であることを良しとする感覚はヒト特有で、他の生き物は自由がないことを良しとする感覚をもっている可能性もあります。

自由がなくて見世物になっていて~なんていうのは、動物を擬人化し捉えた見方であって、その見方が正しい保証などなく、それを前提にして動物がかわいそうだから~なんていうのは違うように思います。

ではまったく問題はないのか。

しかし擬人化して考えているからいけない、と切り捨てることはできません。

擬人化して見なくても、実際に動物が人間と同じように感じている可能性もあるからです。

命を持たない様々な”モノ”と違い、動物は明らかに痛みに対して反応しています。

痛めつけられたら苦しんでいます。

「あ~自由がほしいな」なんていうのは擬人化してみていると指摘されたらそうかもな、と思いますが、動物がいたぶられている様子を見れば、そこにヒトと同じ感覚を一部共有していることは明らかだと思います。

また、動物の主観がヒトにはわからないから、ヒトと同じように感じていない、と決めつけてはいけないことには別の理由もあります。

トマスネーゲルさんのたとえを借りてみます。

人間が他の動物の行動を観察するように、知性のある火星人が人間の行動を観察していたとして、「人間の主観は我々(火星人)にはわかりえないのだから、人間に知覚や食欲などといったものは認められない」と判断するのは誤りです。

なぜなら人間には知覚も食欲もあるのですから。

動物がどのように感じているかわからないので、そこで「動物は人間と同じように感じている」だけでなく、「動物は人間と同じように感じていない」可能性も同時に指摘することができます。

動物が実際にヒトと同じように考え、感じているとしても・・・

動物がヒトと同じように感じたり考えたりするのか、ということが焦点になっていましたが、いったんそうであるとして、そもそもヒトが動物に対して配慮しなくてはいけない理由はあるのでしょうか。

野生動物は、自分の知る限りでは他の種に配慮して生活しているようには思いません。その点では、ヒトだけが他の生物に配慮する必要はないように思います

かわいそうな状態の動物を見て、ヒトは心が痛みます。

自分は、その状態が嫌で動物のことをもっと配慮しようという発想につながっているような気がしています。

だとしたらそれは動物への配慮ではなく、自分への配慮です。

そこから、動物にとってより幸せ”であろう”環境(本当に動物がそう思うかはわからない)を用意してあげる、などといった発想はヒトの自己満足だなあ、なんてふうに思ってしまいます。

いったんまとめ

「動物がかわいそうだ、ということから」動物にもっと配慮しようという方向に進む発想は、ヒトの自己満足の面が強く、偽善的に自分は感じました。

ただ自己満足で偽善的であったとしても、それが悪いことであるとは言えません。他の種に対しても共感できる能力ってとても素晴らしいことに自分は感じます。動物に対して何も感じない人はきっと他人に対しても共感できないだろうと思います。

動物に対して配慮しなくてはいけないことについては、動物への心理的な共感でない面からも見ていこうと思います。また、動物園の動物だけでなく、実験動物や食用動物、ペット用動物などにも視野を広げてみていく必要もあるなと感じました。

追記

動物倫理については

①動物に心がある×配慮すべき

②動物に心がある×配慮しなくてよい

③動物には心がない×配慮すべき

④動物には心がない×配慮しなくてよい

の4パターンの立場に整理できると考えました。

すると、考えないといけないポイントは

A:「動物に心があるかどうか?」

B:「そもそも動物に配慮すべきかどうか?」

の2点であることになります。

上で書いたことをまとめると、

今回検討した「動物がかわいそうだから配慮すべき」という立場は①の立場であり、

Aについては、人間が動物の心があるかどうか確かめることは不可能である。(しかし快と不快を感じる能力は有していることはたしか。)

Bについては、心があるにせよないにせよ、動物に配慮する必要はなさそう。

という点から、人の偽善、エゴであるという結論にいったん落ち着きました。しかしこれは大分考え不足で、もっと細かくみる必要があるように感じます。

まず心の有無については、心の定義が曖昧すぎるため、細分化するべきです。

・快と不快を感じることができる、というレベルで心があるとするのか

・情動があるレベルを心があるとするのか

・感情があるレベルを心があるとするのか

「動物がかわいそうだから配慮すべき」を検討する際は、

動物がかわいそうと思うのはなぜか? 檻に閉じ込められていて自由がないから。

→自由がない、という風に感じる心は、快/不快よりも上位で、情動よりも上位な、感情のレベル。

→動物に(情動でない)感情があるのかどうか?  と言い直せる。

という風に、かわいそうに思った原因を考えて、それがどのレベルの心で感じることのできることかがわかれば、「心」が少し具体的になります。

もし、快/不快や情動のレベルの心で感じることのできるものが原因で、かわいそう、と思ったのであれば、動物に心があるといってよいと思います。

しかし、今回のように感情のレベルだと、動物に心があるといえるかはよくわからないです。

いろいろな学者さんが研究しているようなので、勉強していきたいです。

また、動物に配慮すべきか、という部分についても

・動物のために動物に配慮すべきか

・人間のために動物に配慮すべきか

をきちんと整理しないといけないと思います。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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