100%の心から利他的になる、という野望の話

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インターン面接のアンケートで、あなたの野心はなんですか?という項目がありました。
そのときに考えたことを書いていきたいと思います。

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人の役に立つことをしたい。その心は純粋なものですか?

重い荷物を持ったおばあちゃんを助けてあげる、なんて小さなことから、発展途上国でボランティア活動をする、といった大きなことまで、人助け・社会貢献にはいろいろな形があります。

自発的にそういったことをしようと思う人もいれば、まったくそんなことを考えず自分のことばっかり考える人もいます。

人の役に立ちたい、と思う心はとても素敵で、そういった心からボランティア活動なりが行われていることには間違いないと思います。

しかし、一方で、そういった活動の動機には、自己顕示欲や自己満足といった自分のためという側面も少なからずあるでしょう。そういった面を無視して素敵な心の側面ばかりを語る人にどこか偽善のようなものを感じるのはひねくれた見方でしょうか。私はいつの間にかひねくれてしまったようです・・・。

そんなひねくれた自分は現在、100パーセントの気持ちで利他的になるという野心を持っています。

そう思うようになったのは2つ理由があります。ひとつは幸福になるためには、という観点から。もうひとつは死の準備という観点からの理由です。

幸福の上限値について

幸福とお金の関係について考えたとき、自分のことにだけ全力でお金を注ぐのと、他人に自分の稼いだお金をそそぐこと、どちらのほうが幸せになれると思いますか?

自分は物欲が強く、あれも欲しいこれも欲しいと欲しいものは尽きません。

ひとつものを買うことで一時的に満足感が訪れ、少したつとまた別のものに目が行き欲しくなるという終わりのなさそうなスパイラルに陥っています。

しかし、仮に宝くじで1等があたり、欲しいものはいくらでもかえる状況になることを考えてみます。

あれが欲しい、よし買おう。あれも欲しい、よし買おう。

そうやって心ひかれたものはすべて手に入ります。

しかし次第にお金で手に入れられるものからは幸福感が得られなくなるのではないでしょうか?  これがお金で手に入る幸福の上限値だと自分は思います。

しかし、ここで自分にばっかり向いていた目を外に向けることができれば、

すなわち他人を喜ばせるためにお金を使うことができれば話は変わってきます。

他人を喜ばせ、それを自分の幸せに感じ取ることができれば、幸福の上限値は果てしなくなります。世の中には困った人なんていくらでもいて、それをすべて自分の力で解決することなどできませんから、その意味でいくらでも幸福になれます。

ただ必要なのは、人が喜ぶことを自分の幸せと感じるその心です。その性質の心は人間だれにだって備わっていると思いますが、割合は人それぞれ異なっているでしょう。

その心は利他心とも言い換えられるのではないかと思います。

利他的になればなるほど、自分が幸福になれるのではないか、と考えています。

死への準備について

岸本秀夫さんという宗教学者がいます。

彼は宗教を研究していましたが、自身は特定の宗教を信仰してはいませんでした。

そして、がんで余命半年の宣告を受け、宗教を信じる=死後の世界を信じることなしに、死と向き合った体験を「死を見つめる心」という本に記しています。

彼が言うには、死の苦しみは大きく2つあるそうです。

ひとつは、死はたいてい大きな痛みを伴い、その痛みにたいしての恐怖・苦しみです。

もうひとつが、今こうして考えている自分、自我がなくなるということに対しての恐怖・苦しみでこちらの苦しみが前者を上回るそうです。

自分は後者の苦しみは、裏返して言えば、それだけ人は自我に執着しているということだと理解しました。

突き詰めて考えていくと、人のどんな行動にも少なからず自分のためという側面は含まれるように思います。

この自己中心的な考えの部分をできるだけ少なくして、可能であればなくすことができるのならば、自我への執着はなくなり、死に際する苦しみもなくなるのではないか、と自分は考えました。

動機と目的の間の矛盾

しかし、悩ましいのが、2や3で述べた動機が、

「自分がもっと幸福になりたい」

「自分が死ぬときの苦しみを減らしたい」

という双方ともに自己中心的な部分から出てきた動機である、ということです。

「100パーセントの心から利他的になる」という目的が非利他的動機から生じるのはどうも間違っているように感じます。

また、100パーセントの心から利他的になることがそもそも可能なのか、大きく疑問に思います。正直100パーセントは神様仏様の世界じゃないかなあ・・・。

しかし、だからといって開き直って自己中に生きるのでなく、少しずつその心のよい部分の割合を増やしていくことができたらいいなと思います。

たとえ動機に非利他的なものがあるとしても、同時に利他的な心も(割合が少ないとしても)あることに間違いはありません。

自分のしていることは偽善だ、と決め付けるのは、自分の中の非利他的心のみを見てしまっているので、同時に利他的な心があることも素直に認めてあげようと思います。

そうして、小さなことでも行動を重ねていく中で、しだいに純度100パーセントの利他心の固まりになることができたらいいな。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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